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August 25, 2018

清原和博 ひかりかがやく 大空高く―

金足農業の躍進が話題となり、大阪桐蔭の優勝で幕を閉じた夏の甲子園。
その決勝戦を清原和博が見に来た、と聞いて「ああ、やっぱり」という思いを禁じえなかった。

 

「夢なのか、現実なのか……
清原和博は甲子園決勝で何を見たか。
http://number.bunshun.jp/articles/-/831690


今年7月に出た、清原が現在の心境を語る本「告白」の中で、清原は「もう一度、甲子園に行ってみたい」と語っている。

Photo_2

〇「清原和博 告白」(文藝春秋)

 

 

名誉、家族、あらゆるものを失った清原は現在「何を目標にして生きていけばいいかわからない」と言う。
一人でいるとたびたび自殺願望に襲われる、とも語っている。

 

清原が考えた自分の原点。
それは通算本塁打記録を作った甲子園だった。
525
本のホームランを打った22年のプロ野球時代ではなく、3年間の高校時代のクライマックス、あの3年夏の決勝戦がいまだに清原の心には残っている。
33
年を経てスタンドから見た大阪桐蔭と金足農業の決勝戦は、清原の人生を前に進めるものになってくれただろうか。
そのことばかりを考えてしまう。

 

 

自分にとって清原は長い間、「嫌な打者」だった。
清原が甲子園で活躍していた頃、小学生だった自分は「よく打つ高校生」というイメージしか持っていなかった。
その「よく打つ高校生」は「卒業したら読売ジャイアンツに入りたい」と言っていた。
当時ヤクルトファンだった私は「なんだよ結局巨人かよ」と彼に反感を持った。

 

しかし清原は巨人に指名されなかった。
そして盟友であるはずの桑田が巨人に指名され、清原は西武ライオンズに指名される。
「えっこんなことってあるの!」という戸惑いは彼への反感を一旦消した。

 

やがて自分はロッテを応援するようになる。
その頃、パ・リーグで絶対的な強さを誇っていたのが西武ライオンズだった。その四番にはあの清原がいた。
当時の清原はとにかくよく打った。
1989
年にはロッテとの間で乱闘騒ぎも起こした。
清原はずっと「憎き対戦相手」だった。

 

その後清原はFA宣言をして巨人に行ってしまう。
「ドラフトの時、あんな裏切られ方したのに、結局それでも巨人なのかよ…」

という思いを禁じえなかった。

 

巨人に移籍して以降の清原は、とにかく苦労していた。
それを私は「大変そうだね」と冷淡に見ていた。

清原はジャイアンツで年々異形化していく。
筋トレを始めてプロレスラーのような体になったり、坊主頭にしたり、極端にマッチョ化していく。
気がつけば『番長』というニックネームがつけられていた。
打っていた時期はまだいい。
しかし打撃不振になると、その異形さが足を引っ張りバッシングにさらされる。
あまりに打たないので応援団が応援をボイコットする事件まで起きた。
一時的なものだったが、心のダメージは小さくなかっただろう。
巨人時代後半は「ケガ欠場復帰ケガの影響で打撃不振」のサイクルから出られなくなっていて、球団から目に見えて冷遇されていた。

次第に自分の清原に対する気持ちは「ふーん」から「何やってるんだよ」に変わっていった。

 

何やってるんだよ。
おまえはそんなもんじゃないだろう。
破竹のように打ちまくってた西武時代のあんたはどこ行ったんだよ。

 

そして球団の言うことを聞かないせいなのか、必要以上に冷たい対応をするジャイアンツにも苛立った。
清原は球団から戦力外を通告されながら「泥水をすする覚悟で」という名言とともに残留して最後の奮起を示そうとしたが叶わず、ジャイアンツから放り出された。
拾い上げたのは西武時代の彼がライバルとして戦っていたオリックスだった。

 

清原が加入して以降、自分はオリックスに不思議な感情を持っていた。
応援したいわけではない。
ただ、どうにか清原に光が当たるようにしてほしい

清原にはひいきチームの勝敗を超越して活躍してほしいと思うようになっていた。
昔、あんなに嫌いだったのに。

 

清原が活躍することが、自分たちの見ていたものが「特別」であると証明されるような気がした。
清原が活躍することで、自分たちの見てきた時代が「特別な時間」であったように錯覚できる気がした。

 

けどもうその頃の清原の身体は限界だった。
うすうすわかっていた。だから、願ってしまったのだろう。

 

 

Youtubeには引退を控えた清原が迎えた、古巣・西武ライオンズとの最終戦試合後の映像が残っている。

 

清原現役最後の西武ドーム

 

この数日後、大阪ドームで行われるホークス戦が清原の引退試合に決まっていた。
このとき、オリックスはクライマックスシリーズ進出をかけて負けられない状況であり、一打席だけの代打しかできない清原を起用できないまま試合は終了してしまう。
「古巣・西武ドームでの清原の最後の雄姿」を期待して詰めかけた観客は一様にがっかりした。

 

しかし試合終了後、試合に出場しなかった清原が一人、グラウンドに現れた。
かつて自身が活躍した西武球場(そう呼びたい)のフィールドを清原は歩き、外野まで行くと西武ファンに深々と頭を下げる。
スタンドの西武ファンはオリックスのユニフォームを着た清原に「キーヨハラ!キーヨハラ!」と大声援を送り、西武時代の応援歌を合唱する。
ビジョンには「ありがとう 清原和博選手」という字幕が出る。
プロ野球の世界で球団がビジターの選手にメッセージを出すことは異例だ。

 

ホームまで戻ってきた清原に渡辺久信監督(当時)が花束が渡す。
新人時代、所沢の寮に住んでいたが車を持っていなかった清原は、試合後に渡辺久信の車に乗って青梅街道のリンガーハットに一緒に行くことだけが楽しみだった、という。(『告白』より)
あれから年を重ね、別々のチームに別れた二人が抱擁を交わす。

 

やがて一塁付近で清原の胴上げが始まる。

率先したのは清原と同じチームとしてプレーしたことはない世代のライオンズの選手たちだ。
そこにオリックスの選手たちも加わり、呉越同舟で胴上げが始まる。

 

胴上げが終わるとライオンズで背番号3をつけていた中島裕之がユニフォームを脱いで清原に渡す。
清原が笑いながらオリックスのユニフォームを脱ぎ、ライオンズの「背番号3」ユニフォームを着ると球場がひときわ盛り上がる

 

 

私はこの映像を見るといつも泣きそうになってしまう。
ここには幸福なものしか映っていない。

 

 


あれから10年。
もう2008年には戻れない。

清原は光を探している。

 

西武球団は年に1回、球団の歴史を踏まえたイベント「ライオンズクラシック」を開催している。
今年も夏に開催され、かつての名選手やゆかりのある人々が参加した。

 

目をつむる。いつかの西武球場。ライトからレフト方向に風が流れている。トランペットの音色が聞こえる。歌が聞こえる。

 

ひかり かがやく 大空高く

 

グラウンドに背番号3の青いユニフォーム姿の大男がバットを持って立っている。
彼は泣いている。
隣でライオンズの辻監督が「もう泣くなよ」と肩に手をかける。
三十数年前の秋、この場所でそうしたように。

 

 

清原、前を向いて歩いてほしい。

いつか許されるその日まで。

まっすぐに。ただ、まっすぐに。

 

 

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