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August 2018

August 31, 2018

「出版社の人が選んだ『あまり売れてないけど面白い本』フェア」

伊野尾書店では9/1より「出版社の人が選んだ『あまり売れてないけど面白い本』フェア」を開催します。
 
出版社勤務の18人の方々に「あまり売れてはないけど、実はすごく面白い本」を聞いてきました。
選書された本は著者の方がエゴサして「売れてない」の部分に引っかかると気まずいので情報出しません。
 
出版社の方と話してると、「あんまり売れてないんだけどこの本、すごく面白いんだよ~」という話がよく出ます。
その口ぶりは「今は売れてないけど、ちゃんと存在を知られさえすれば売れるはず」という自信が見え隠れします。
だったらそういう本を集めてみよう、と思いました。
 
開催期間は9/1(土)~10/31(水)です。
 
ご参加された出版社の方々はみな熱いメッセージを書いてくれましたので、それをそのままオビにしました。
どんな本を選ばれているか、ぜひ見に来ていただければ幸いです。
 
#うれおも本
 

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August 25, 2018

清原和博 ひかりかがやく 大空高く―

金足農業の躍進が話題となり、大阪桐蔭の優勝で幕を閉じた夏の甲子園。
その決勝戦を清原和博が見に来た、と聞いて「ああ、やっぱり」という思いを禁じえなかった。

 

「夢なのか、現実なのか……
清原和博は甲子園決勝で何を見たか。
http://number.bunshun.jp/articles/-/831690


今年7月に出た、清原が現在の心境を語る本「告白」の中で、清原は「もう一度、甲子園に行ってみたい」と語っている。

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〇「清原和博 告白」(文藝春秋)

 

 

名誉、家族、あらゆるものを失った清原は現在「何を目標にして生きていけばいいかわからない」と言う。
一人でいるとたびたび自殺願望に襲われる、とも語っている。

 

清原が考えた自分の原点。
それは通算本塁打記録を作った甲子園だった。
525
本のホームランを打った22年のプロ野球時代ではなく、3年間の高校時代のクライマックス、あの3年夏の決勝戦がいまだに清原の心には残っている。
33
年を経てスタンドから見た大阪桐蔭と金足農業の決勝戦は、清原の人生を前に進めるものになってくれただろうか。
そのことばかりを考えてしまう。

 

 

自分にとって清原は長い間、「嫌な打者」だった。
清原が甲子園で活躍していた頃、小学生だった自分は「よく打つ高校生」というイメージしか持っていなかった。
その「よく打つ高校生」は「卒業したら読売ジャイアンツに入りたい」と言っていた。
当時ヤクルトファンだった私は「なんだよ結局巨人かよ」と彼に反感を持った。

 

しかし清原は巨人に指名されなかった。
そして盟友であるはずの桑田が巨人に指名され、清原は西武ライオンズに指名される。
「えっこんなことってあるの!」という戸惑いは彼への反感を一旦消した。

 

やがて自分はロッテを応援するようになる。
その頃、パ・リーグで絶対的な強さを誇っていたのが西武ライオンズだった。その四番にはあの清原がいた。
当時の清原はとにかくよく打った。
1989
年にはロッテとの間で乱闘騒ぎも起こした。
清原はずっと「憎き対戦相手」だった。

 

その後清原はFA宣言をして巨人に行ってしまう。
「ドラフトの時、あんな裏切られ方したのに、結局それでも巨人なのかよ…」

という思いを禁じえなかった。

 

巨人に移籍して以降の清原は、とにかく苦労していた。
それを私は「大変そうだね」と冷淡に見ていた。

清原はジャイアンツで年々異形化していく。
筋トレを始めてプロレスラーのような体になったり、坊主頭にしたり、極端にマッチョ化していく。
気がつけば『番長』というニックネームがつけられていた。
打っていた時期はまだいい。
しかし打撃不振になると、その異形さが足を引っ張りバッシングにさらされる。
あまりに打たないので応援団が応援をボイコットする事件まで起きた。
一時的なものだったが、心のダメージは小さくなかっただろう。
巨人時代後半は「ケガ欠場復帰ケガの影響で打撃不振」のサイクルから出られなくなっていて、球団から目に見えて冷遇されていた。

次第に自分の清原に対する気持ちは「ふーん」から「何やってるんだよ」に変わっていった。

 

何やってるんだよ。
おまえはそんなもんじゃないだろう。
破竹のように打ちまくってた西武時代のあんたはどこ行ったんだよ。

 

そして球団の言うことを聞かないせいなのか、必要以上に冷たい対応をするジャイアンツにも苛立った。
清原は球団から戦力外を通告されながら「泥水をすする覚悟で」という名言とともに残留して最後の奮起を示そうとしたが叶わず、ジャイアンツから放り出された。
拾い上げたのは西武時代の彼がライバルとして戦っていたオリックスだった。

 

清原が加入して以降、自分はオリックスに不思議な感情を持っていた。
応援したいわけではない。
ただ、どうにか清原に光が当たるようにしてほしい

清原にはひいきチームの勝敗を超越して活躍してほしいと思うようになっていた。
昔、あんなに嫌いだったのに。

 

清原が活躍することが、自分たちの見ていたものが「特別」であると証明されるような気がした。
清原が活躍することで、自分たちの見てきた時代が「特別な時間」であったように錯覚できる気がした。

 

けどもうその頃の清原の身体は限界だった。
うすうすわかっていた。だから、願ってしまったのだろう。

 

 

Youtubeには引退を控えた清原が迎えた、古巣・西武ライオンズとの最終戦試合後の映像が残っている。

 

清原現役最後の西武ドーム

 

この数日後、大阪ドームで行われるホークス戦が清原の引退試合に決まっていた。
このとき、オリックスはクライマックスシリーズ進出をかけて負けられない状況であり、一打席だけの代打しかできない清原を起用できないまま試合は終了してしまう。
「古巣・西武ドームでの清原の最後の雄姿」を期待して詰めかけた観客は一様にがっかりした。

 

しかし試合終了後、試合に出場しなかった清原が一人、グラウンドに現れた。
かつて自身が活躍した西武球場(そう呼びたい)のフィールドを清原は歩き、外野まで行くと西武ファンに深々と頭を下げる。
スタンドの西武ファンはオリックスのユニフォームを着た清原に「キーヨハラ!キーヨハラ!」と大声援を送り、西武時代の応援歌を合唱する。
ビジョンには「ありがとう 清原和博選手」という字幕が出る。
プロ野球の世界で球団がビジターの選手にメッセージを出すことは異例だ。

 

ホームまで戻ってきた清原に渡辺久信監督(当時)が花束が渡す。
新人時代、所沢の寮に住んでいたが車を持っていなかった清原は、試合後に渡辺久信の車に乗って青梅街道のリンガーハットに一緒に行くことだけが楽しみだった、という。(『告白』より)
あれから年を重ね、別々のチームに別れた二人が抱擁を交わす。

 

やがて一塁付近で清原の胴上げが始まる。

率先したのは清原と同じチームとしてプレーしたことはない世代のライオンズの選手たちだ。
そこにオリックスの選手たちも加わり、呉越同舟で胴上げが始まる。

 

胴上げが終わるとライオンズで背番号3をつけていた中島裕之がユニフォームを脱いで清原に渡す。
清原が笑いながらオリックスのユニフォームを脱ぎ、ライオンズの「背番号3」ユニフォームを着ると球場がひときわ盛り上がる

 

 

私はこの映像を見るといつも泣きそうになってしまう。
ここには幸福なものしか映っていない。

 

 


あれから10年。
もう2008年には戻れない。

清原は光を探している。

 

西武球団は年に1回、球団の歴史を踏まえたイベント「ライオンズクラシック」を開催している。
今年も夏に開催され、かつての名選手やゆかりのある人々が参加した。

 

目をつむる。いつかの西武球場。ライトからレフト方向に風が流れている。トランペットの音色が聞こえる。歌が聞こえる。

 

ひかり かがやく 大空高く

 

グラウンドに背番号3の青いユニフォーム姿の大男がバットを持って立っている。
彼は泣いている。
隣でライオンズの辻監督が「もう泣くなよ」と肩に手をかける。
三十数年前の秋、この場所でそうしたように。

 

 

清原、前を向いて歩いてほしい。

いつか許されるその日まで。

まっすぐに。ただ、まっすぐに。

 

 

August 20, 2018

芸能界の天と地を見た男の40年史 ~岡野誠 『田原俊彦論』

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○『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018 』岡野誠(青弓社)

日本のこの40年の芸能史の中で、田原俊彦ほど栄枯盛衰を極めた人はいないのではないかと思う。
『3年B組金八先生』でデビュー、たのきんトリオで人気爆発、その後アイドルとして下降線をたどりかけたところで1980年代後半には主演ドラマ『教師びんびん物語』の大ヒットでまた大人気に。
しかし1994年の長女誕生会見の際の「何事(結婚も出産も)も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになってしまうとそうはいかないということがよくわかりました」という発言がマスコミからのバッシングに遭い『傲慢』というイメージをつけられ出演が徐々に減少。
2000年代にはテレビからすっかり消えていく。
だがここ何年かでバラエティ番組などでバッシング報道された当時の事情などを語る機会などもあり、徐々に再評価の動きも出てきている。
 
そんな田原俊彦の40年の足跡と、彼を取り囲んだ時代背景を語る本。
いかんせん著者の田原俊彦愛が爆発していて、後半になるにつれ「田原俊彦はこんなものじゃないはず」「田原俊彦は再評価されないといけない」的愛情表現が多いのが目につくが、全体的には面白かった。
1994年の長女誕生会見の「僕くらいビッグになると」発言がきっかけで始まったマスコミの集団バッシングについて、それはどのように始まり、どう世間に伝えられたのかの検証が興味深い。
インターネット登場以前、マスコミは芸能人に「逐一我々の取材に応じるのは当たり前」と考えており、それに芸能人たちは時に嫌気を感じながら応じていた。
今みたいにブログで発表すればそれでよかったり、マスコミ側の横暴さがネットで叩かれることもなかった時代はお互い不幸な軋轢が生まれたんだなーとあらためて実感する。
そして田原俊彦が凋落していくのと交差するようにSMAPがシーンに上がっていく話は象徴的だった。
 
2000年代後半くらいに井ノ原快彦がひっそりと田原俊彦擁護運動を自分の番組でしていたことを知る。
井ノ原快彦がホームセンターで偶然田原俊彦に会ったとき、2人は同じミネラルウォーターの箱をカートに入れてたが自分は一箱だったのに井ノ原が二箱入れてたのを見て「おまえ、力持ちだな」と田原俊彦が言った、というのはいい話だと思った。
 
『教師びんびん物語』は中学生の頃、夢中になって見ていた記憶がある。普通に感動して見ていた。
(この本で「2」以降何回かスペシャルが作られていたことを知りました)
あの主題歌「抱きしめてTONIGHT」について、バックダンサーの人が「あの曲の振り付けは(※足を高く上げる動きが多い)アスリート並みにすごく体力を使う動きなんです」と言ってて、テレビで初収録した時に気分が悪くなって吐いた、という話がよかった。
そんな動きを田原俊彦は56歳になった今でも(多少動きを簡易的にしてる部分はあるだろうが)コンサートで踊りながら歌うという。
この本読んで初めてあの曲は「どこがサビが不明」ということに気がついた。
トシちゃんに敬意を表して今度カラオケで歌おうと思う。
足は上がらないけど。
(H)

August 15, 2018

コミュ障の詩人が見た喜びと絶望 ~「原民喜 死と愛と孤独の肖像」梯久美子

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○「原民喜 死と愛と孤独の肖像」梯久美子(岩波新書)

原民喜は戦前・戦後に作品を多く出した詩人、作家である。
広島で被爆した体験をつづった「夏の花」が代表作だが、そこまで名前を知られた作家ではない。

私はこの本を読むまで原民喜を知らなかった。
ただ、原民喜の半生を通じて大正、昭和初期に生きた「個人の生活」を知ることは大変面白かった。
昭和49年生まれの私が想像できる「個人の生活」はせいぜい戦後生まれくらいからであって、明治生まれの個人の生活は想像できなかった。

町には喫茶店があり、気になる人とお茶を飲む。夜は酒を飲みに行く。
生活に余裕がある若者は学校に行かなくなり、夜型の生活をする。
暗く湿っぽい人生を照らすきっかけになるのはたいがい異性の存在である。

原は広島の資産家生まれだったということもあると思うが、昭和初期も個人の生活は意外と今と変わらない。

原の作品世界は繊細な感受性によって作られる。
繊細な感受性は対人コミュニケーションを困難にし、時に生活能力を低下させる。
原が生きた時代は彼にとって生きずらい時代であったと思うが、それゆえに彼が作品を通じて放つ「生の記録/孤独/愛」は読む人に静かに強く訴えかける力がある。
孤独は思考の刃を内面に向かわせる。
考えれば考えるほどよりネガティブに、より悲観的に、暗く悪い方向に考えがちである。
彼の生きた時代は気を紛らわせるものが少ない時代だった。
それは作品を純化させるためには有効だった半面、個人にとっては生きづらい時代だったのではないかと、気を紛らわせるものにあふれた現代からは見える。
どちらがよいというものではないだろう。
そういう時代だった、というだけで。

この本には気になる点が一つある。
それは著者の梯久美子氏が「原民喜をどういう経緯で知り、どうして興味を持ったのか」があまり語られないところだ。
あとがきに
「個人の発する弱く小さな声が、意外なほど遠くまで届くこと、そしてそれこそが文学のもつ力であることを、原の作品と人生を通して教わった気がしている」という記述が唯一あるが、そこをもう少し掘り下げて書いてもらえば読む側も思い入れを持ちやすいだろうなと思う。

だが最後に「いまだ存命中とわかった神保町のU子さん」を追い求めて著者が会いに行く場面は「史実」と「現実」が一気につながる迫力のある場面だった。
そして89歳のU子さんの語る言葉もまた人と人との関係を他者が知れる限界を教えてくれるようで、深く心に残るものだった。
多くのものを失っていく晩年の原がU子さんに感じた感情を、私もまたずっと考えている。

(H)

「佐山さんですか?普通の人ですよ」と田崎さんは言った ~「真説・佐山サトル」

大学生だった頃、バイト先のファミリーレストランにホリエさんという男性が新入社員として入って来た。
向こうは社員でこちらはアルバイトだから本来向こうの方が立場は上だが、ホリエさんは年下のわれわれ相手に謙虚に仕事を教わり、それなりに「仕事上の先輩」として敬ってくれていたので良い関係が築けた。
そしてホリエさんもプロレスが好きということが判明し、私たちは一気に仲良くなった。

あるとき、仕事が休みの日にもう一人バイト仲間でプロレス好きだったAくんと一緒にホリエさんの家に遊びに行くことになった。
ホリエさんが住んでいた王子のマンションの一屋でしばらく三人でしゃべってると、ホリエさんが「こないだこれを買ったんだよ。これ見ようよ」と四角い箱状のものを持ってきた。
『初代タイガーマスク 猛虎伝説』というビデオボックスだった。値段はたしか3万か4万した。

僕らは三人でしばらくそのビデオを見ていた。
ホリエさんは「すげえ…」「いやかっこいいよタイガー…」とかずっと独り言をつぶやいていたが、あるとき急に「そうだこれ!これちょっと見てほしいんだよ」とビデオを早送りし始めた。
早送りが止まって出てきたのは、タイガーマスクvsスティーブ・ライトの試合だった。
私はスティーブ・ライトというイギリス人レスラーをこのとき初めて知った。

ホリエさんは試合序盤にタイガーが立った状態からスティーブ・ライトの背後に回って相手を倒していくシーンのところでリモコンを止め、「見た!?今の!すごくない?」と同意を求めてきた。

「あ、そうですね、すごいです」と答えると「すごいよね!今の!もう一回見ていい!?」と巻き戻して同じシーンを再生した。
再びタイガーがスティーブ・ライトの背後に回って相手を倒していく。

「すごいよね!これできないよ!かっこいいなあ!」ホリエさんは興奮しながら言う。
Aくんはケラケラ笑いながら「すげえ!」と手を叩いていた。

確かにタイガーマスクはすごかった。
体の動きが普通のレスラーとはまったく違って、一人だけ早回ししたような動きをしていた。
ただ、この時代よい動きをするレスラーは他にもいて、私は内心(みちのくプロレスのザ・グレート・サスケとかの方がすごい動きしてるんじゃ…)とぼんやり考えていた。

ホリエさんはこのあとも「タイガーマスクのここがすごい」という動きをビデオを止めながらいろいろ解説してくれ、それはわかったりわからなかったりだったが、仕事のときはもの静かなホリエさんがタイガーマスクについてだけは異常に熱をもってしゃべっていたことが印象的だった。

  
タイガーマスクが新日本プロレスのリングに登場した1981年、僕は7歳だった。
父親と並んで虎のマスクをかぶった選手が華麗な動きをしていたのをテレビで見た記憶はある。
ダイナマイト・キッドや小林邦昭といった選手と戦っていたのも覚えている。

けどそこまでだ。
特別深く刻まれていない。
7歳にとってのタイガーマスクは仮面ライダーやウルトラマンといった映像世界の中だけのキャラクターと区別がついておらず、今思い返しても「そういう選手がいた」という認識しか持っていない。

僕がプロレスに深く傾倒するのは天龍源一郎とジャンボ鶴田の試合を見た中学生になってからで、そのときにはタイガーマスクは『二代目』になって全日本プロレスに出ていた。
二代目タイガーマスクの正体は三沢光晴で、初代だった佐山サトルとは別人である。

全日本プロレスから入ってインディープロレスに拡散していく自分のプロレス嗜好の中で、初代タイガーマスク=佐山サトルは常に彼岸にいる人だった。
「すごかった」という話はよく聞くものの、気がついたときにはプロレスのリングにいない。
どうやら『ケーフェイ』というプロレスの内側を暴露したような本を出したらしいが本屋になかったので読んでいない。
タイガーマスクをやめてからはUWFという団体に出ていて、今は“シューティング”という格闘技の道に行ってしまったらしい。
ちょいちょいプロレスを下に見るような発言がメディアに出てくる。

佐山サトルは自分の中にある「いったいなんなんだろうこの人」という枠にすっぽりはまっていた。
結局それはその後も20年以上続いた。

プロレスを否定して理想の格闘技を追求し「修斗」を創設するものの、結局そこから離れた人。
プロレスに戻ってきては「仕方なく」プロレスをやっている人。
右翼思想の持ち主。
選挙に出た時は街頭演説で『暴走族は殺せ』と発言したらしい。

すべて間違ってはいない。
けれどもどこか芯をはずしている。確信をつかんでいない。
ずっとそう思っていた時に『KAMINOGE』で田崎健太さんの評伝が始まった。

一人の人間の半生を描くにあたって、その当事者自身に半生を語ってもらったことを本にまとめる方法がある。
それは「自伝」と呼ばれる。
田崎健太が書くのは「人物ノンフィクション」である。
必ず、その人の周囲にいた多くの人々に証言を求める。
「彼は、彼女は、どういう人であったのか」
それを多くの人に丹念に聞き、集めた話をつなげていく。

そういう取材をしていくと面倒なことがたくさん出てくる。
証言が一致しない。
『事実』が一致しない。
あいつの話は聞くのか?あいつの話を載せるのなら俺は話さない…。

そういういくつもの厄介ごとを経て、さらに田崎はその当事者に尋ねる。
「Aという人によれば、こういうことがあったそうですが―」
それは時に当事者にとって気分の悪い話もあるが、本人の話だけでは絶対に出てこない『事実』を積み重ねることで、複数の視座からなる多角的な人物像が読者に作られていく。

「タイガーマスク」として時代の寵児となった“光”と、この国の総合格闘技の礎を築きながらその恩恵を一切受けないまま野に下った“闇”。
二つの面を併せ持つ稀代の格闘家を田崎健太が取材したこの本は、これまで理解されにくかった佐山サトルという人物の思考回路を丁寧に解きほぐしていくとともに、「いかに人が不確かな伝聞によってその人をイメージしていくか」ということを浮かび上がらせる。
「ある人物」を描こうとすれば、かならずそれは「われわれ人間とは何なのか?」に戻ってくる。

この本を読むと、佐山サトルは「いったいなんなんだろうこの人」から「こういう人だったんだ…」に印象が変わってくる。
新しいものを作ろうとして、時代と戦った人。
その時代に必ずしも正当な評価を受けなかった人。
「真説・佐山サトル」は評価の定まらなかった一人の求道者の深淵を周囲から描いた作品であると思う。

 

この本が出た後、著者の田崎さんにお会いする機会があった。
そのときに「佐山さんって実際のところどういう人ですか?」と聞いたところ、田崎さんは即答した。

「普通の人ですよ。僕の知る限り、あの時代のプロレス界の人では極めてまともな人だと思います」

最初、取材対象者だから敬意を持ってそう言ってるのかな…と思ったが、読んでるうちにだんだん本当にそうなんじゃないか、という気がしてくる。

メディアが速報的に知らしめる人物、出来事のニュースと時間が経ってから関係者が話す人物、出来事のニュースの埋めがたい差。
われわれは本当に「その人物」を知っているのか?
本当に「何を」知っているのだろうか?

○「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男」田崎 健太(集英社インターナショナル)

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(H)

August 06, 2018

夏季休業のおしらせ

いつも当店を御利用頂き、誠にありがとうございます。
お盆休みの間、営業時間は下記の通りとなります。

8/11(土・祝) 11:00~20:00

8/12(日)~8/14(火) 休み

8/15(水)  11:00~20:00
8/16(木)~  通常営業

よろしくお願いいたします。

※8/11~8/15の期間に新刊は出ません

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