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July 05, 2017

とある新人漫画家に本当に起こったコワイ話

〇「とある新人漫画家に本当に起こったコワイ話」佐倉色(飛鳥新社)

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この本を紹介するかは非常に迷いました。
 
この作品を簡潔に説明するなら「ネットに漫画を発表していた著者のもとに某大手出版社(以下A社、作中では実名)の編集者から出版化の話が来て、本を出すことになったけどそこから大変な目に遭った」という話です。
この著者の佐倉さんとA社の騒動はすでにネットでも話題になっていたので、知ってる人は知っていると思います。
 
で、私が紹介するか迷ったのは一読して「A社…これはないだろう…」という反応をどうしても持ってしまうところです。
著者の佐倉さんは大変な目に遭っている。
けど私ども書店はA社にはお世話になっている立場だからです。
もし仮にA社の本がなかったら、自店の売り上げは結構な数字で減っていることと思います。
 
それでも取り上げたいと思ったのは、この本には現代社会で起きる揉め事の根っこがよく書かれている、と思ったからです。
それは「自分の会社、そして自分自身が仕事するにあたってのルールや価値観は相手も同じように共有している」と思ってしまうことです。
 
例をあげると、作中担当編集者であるボーノさんは佐倉さんに「ごめんなさい」「すみません」と謝りながら苛烈な業務を与えたり、あるいは事前の約束を反故にしたりします。
佐倉さん、そして読んでる側からすれば「なんてひどい編集者だ」と考えるのは当然ですが、たぶんボーノさんは周りの同僚や先輩編集者を見てそうなってるはずです。
「それが当たり前」、あるいは「そうしないとしょうがない」というロジックが編集部にあって、それも長らく積み重なった末にそうなっていったのだろうと思います。
 
ボーノさんは非常に保身的な言動が目立ちます。
もちろん本人のプライドの問題もあると思いますが、「失敗や訂正を口に出せない」空気が社内にあり、それが土壌になっていった部分もあると想像します。
そしてなにより
「というのが社内(A社)のルールなんだけど、それにのっとってやってもらえますよね?」
ということに対して無自覚になってしまっている。
相手側と自分が同じ「ルール」の上に立っているか、確認作業をするという発想がない。
なのでA社側の真意としては「黙って俺らの言うことを聞け」というよりは、「なんでこんなに揉めているのかわからない」が近いのではないでしょうか。
そしてこれは仕事をしていると「絶対に自分もしていないとは言い切れない」感覚なのです。
 
たとえば私は書店の店長ですが、店では学生のアルバイトスタッフにも働いてもらっています。
私は学生時代あまりお金がありませんでした。
だから今働いているスタッフにはたくさん稼いでもらいたい。
そうだ!じゃあ学生バイトのBさんには週五日、一日8時間働いてもらおう!
そうすると月20万円いくじゃないか!
それだけあればうれしいだろう、ねえBさん!
…と私がBさんのシフトを週五日、一日8時間にしたところで学生のBさんは参ってしまうでしょう。
そんな働いてたらBさんは授業に出る時間か睡眠時間か、どちらかなくなってしまいます。
 
この場合、私が自分のルールを「いちばんよいもの」と信じて、それ以外のBさんのルールというものを想像すらしなかった場合、Bさんが「こんなに入れない」と怒ったりしたら「え、なんで?なんで怒るの?だってお金もらった方がよくない?」とか言ってしまうでしょう。
 
これはわかりやすい例ですが、こちら側が「そういうものだ」と思っていても向こうは全然そう思っていない、というのは仕事をしているとそこかしこにあります。
立場が微妙に違う取引先はもちろん、同じ職種や役職でもあります。
そしてそれがトラブルになったとき、第三者に説明するのはかならず「普通はこういう場合A(自分たちのルール)なんだけど、それを先方はBにしろって言うんだよ」という言い方になります。
そこに「先方のルールはまったく違うかもしれない」という発想はありません。
 
というようなことで起きた揉め事が、非常に細かく具体的に書いてあるのがこの作品です。
そしてそれは全然A社だけの問題でない。
どこにでも起こりうる話だと思います。
 
窪美澄さんの小説「よるのふくらみ」には
 
「誰にも遠慮はいらないの、なんでも言葉にして伝えないと。どんな小さなことでも。幸せが逃げてしまうよ」
 
というセリフがあります。
 
私はこれほんと至言だと思ってて。
 
大事なことはなんでも言葉にする。
 
本当にそれをするだけで誤解や揉め事が避けられることって世の中にたくさんあるんですよ。
そんなわけで佐倉色さんにもボーノさんにもここを読んでるあなたにも「よるのふくらみ」を読んでもらいたいです。
ほんと名作です。

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