« May 2016 | Main | July 2016 »

June 2016

June 25, 2016

正解も不正解もない選択の果て  ~紫原明子著「家族無計画」

○「家族無計画」紫原明子(朝日出版社)

Photo

「誰か一人が選ばれるようなシチュエーションがあれば必ず自分が選ばれたい」

この本の著者である紫原明子さんは子供の頃にそう考え、そのためにはクラス委員長のような優等生的な生き方こそが「選ばれる」と考えていた。
しかしマンガや小説、ドラマなどで選ばれるのはそうではない。
おとなしかったり、不登校だったり、勉強ができなかったり、そういった優等生でない子にこそ、ある日突然サプライズが訪れる。
そして学級委員長的なタイプは暗くて面白味もなく、寂しい存在として描かれる。

たかがフィクション、されどフィクション。
10代の紫原さんは損ばかりの優等生な役割に生きずらさを感じていた。けどどうやって改めていいのかわからない。

そんなとき、高校生だった紫原さんはネットで知り合った一人の男性と出会う。
4歳年上の、しかしあきらかにそれよりも年上に見えた坊主頭のその男性と交際するようになり、そして18歳で結婚する。
19歳に出産。
しかしそこから、怒涛の日々が始まる。
怒涛の人生、と言い換えてもいいかもしれない。

妊娠中に旦那さんが「いつでも近くにいられるように」と務めていた会社をやめ、自分の会社を独立起業する。
いざとなったら私もパートすれば食べてくことぐらいできるだろう…と思っていた会社は、設立からあれよあれよと急成長。
気が付けば給料が一ケタ増えて、生活は大幅に変わっていく。
そして生活の変化は、人間関係にも変化をもたらす。

家に帰らなくなった旦那。
家の届くカードの請求書は、月に2000万円を超した。その大半はキャバクラで使ったお金だった…。

自分、人生、恋人、家族、子供、恋愛、仕事。

生き方には「正しい生き方」も「正しくない生き方」もなくて、自分で選んだ生き方しかない。
紫原さんはジェットコースターのような激しいアップダウンの、普通の人には体験できない半生を体験してきたことで見えてきた「生きざまの真理」を持っている。
この本にはそれが散りばめられている。

「けれどもこの、何がどうなるかわからないという当たり前のことを、私たちはあまり当たり前ととらえていない節がある。
それもそのはず、そんな順序立てて説明できないことは、学校で教わらないからだ。
偉大な功績の影には血のにじむような努力がある。
良い行いは褒められ、悪い行いは罰せられる。
入口から入ったものは出口から出てくるに決まってる、それ以外ありえないんですよ、と言わんばかりに、世の中の様々な現象を、短絡的な構図に変換して理解することを、私たちは幼いころから教え込まれる。
そのために決して少なくない人が、自分の身に降りかかるあらゆることを、自分の蒔いた種だと思いこむ。
そればかりか「あの人あんなだから旦那に愛想尽かされるのよ」「あの人あんなだから結婚できないんだよ」といったように、他人の事情までも同様の理論で理解しようとする。
それが結果として息苦しさを伴う、過剰に自己責任を問う社会を生んでいる」
(あとがきより)

June 23, 2016

「1974年のサマークリスマス ~林美雄とパックインミュージックの時代」

自分が生まれた頃にどんなテレビ番組が流行っていたか、どんな歌が流行っていたのか、まるで知らない。
もちろん調べれば番組名も曲名も出てきて、「あーなんか聞いたことある」くらいには知ってると思う。
けどそのテレビ番組や歌が当時どのようにして人々の心に刻まれたかは想像もつかない。

70年代は学生運動が終息していき、オイルショックやベトナム戦争など閉塞的な空気が流れる中、新しいメディアが生まれていった時代である。

ということも「そうだったらしい」と、1974年生まれの私は伝聞で書いている。
本当の時代の空気は知らない。

ただ、その時代のことを書いた本を読んでると、うっすらと「こんな感じだったのかな」と感じることがある。

 

柳澤健「1974年のサマークリスマス」(集英社)は70年代の伝説的ラジオパーソナリティ、林美雄と彼の名物番組「パックインミュージック」を中心に当時の放送する側、聴く側にどんなことが起きていたかを深く掘り下げたノンフィクションだ。

70年代前半、ラジオの深夜枠は一部の「人気番組」と「そうでもない番組」に別れ、後者はスポンサーもつかない替わりにパーソナリティが自分で放送内容から何まで考えないといけない時代だった。
林美雄は子供の頃からの夢であるアナウンサーになるため正しいアナウンス技術を習得してTBSラジオに就職したが、「正しい日本語」は話せても「おもしろい話」はまるでできなかった。
林の周辺には久米宏、小島一慶といった才能の塊のようなアナウンサーがおり、彼らは独自の話術で人気を博したが林には彼らのように人の心をつかむ話術を持っていなかった。
披露する知識もなかった。

苦しんだ林はひたすら映画を見に行く。
他の人が見ないような映画をどんどん自分から見に行く。
そうして見に行ったなかで、「これは!」と思ったものを過剰に紹介する。
そこから、少しずつ林の番組が変わっていく。
午前3時から始まる林の「パックインミュージック」は、情報を伝えるメディアが限られていた1970年代の中できわめて特殊な位置付けを持ち始める…。

話術をもたない、平凡なアナウンサーがいかにして「伝説のラジオパーソナリティ」に変わっていったのか。
そして、どのような経緯があって、その座を降りていったのか。
この本はそんな「確かにあった栄光と挫折」を、当時の時代背景を、若者の感覚を指でたどるように書きだしている。

知る人ぞ知るサブカルチャーを広く紹介する番組として狭く深く愛された林美雄の「パックインミュージック」が最終回を向かえた時、熱狂的なファン数十人は放送時間にあわせて深夜のTBSラジオに詰めかけたという。
今の感覚からすると意外な感覚があるが、さらに驚くべきは放送終了後ラジオ局に詰めかけたファンの前に林が現れ、「ちょっとみんなで散歩しようか」と赤坂のTBSから四谷まで散歩した、という逸話である。

「笑っていいとも」最終回放送の時間にお台場のフジテレビに詰めかけたファンはどれくらいいたのだろう。
また、いたとしてもタモリが彼らとお台場海浜公園を散歩することはなかっただろう。
(そのタモリも「パックインミュージック」に出演して四か国語麻雀を披露していた)

私たちは常に知らない。
他の人が生きた時代を、他の人が味わった感覚を、いつもわからないでいる。

youtubeには林の「パックインミュージック」最終回の録音音源がアップされている。

聞いていると正直「古いなー」と思ってしまう。
だが、いま、この時代に私たちがおもしろい、すごいと思っているものも、40年もたてば「古いなー」と思われるだろう。

林の「パックインミュージック」と同時代に生まれた小説、柴田翔「されど、われらが日々」の一節を思い出す。

 やがて、私たちが本当に年老いた時、
    若い人がきくかも知れない。
    あなた方の頃はどうだったのかと。
    その時私たちは答えるだろう。
    私たちの頃にも同じような困難があった。
    もちろん時代が違うから違う困難ではあった
    けれども、
    困難があるという点では同じだった。
    そして、私たちはそれと馴れ合って、
    こうして老いてきた。
    だが、私たちの中にも、
    時代の困難から抜け出し、
    新しい生活に勇敢に進み出そうとした人が
    いたのだと、
    そして、その答えをきいた若い人たちの
    誰か一人が、
    そういうことが昔もあった以上、今われわれも
    そうした勇気を持つことは許されている
    と考えるとしたら、
    そこまで老いて行った私たちの生にも、
    それなりの意味があったと言えるのかも知れない(「されど、われらが日々」)

時代は変わる。
少しずつ変わっていく。
そのなかで少しずつ、引っ掛かりを覚えながら、あるいは誰かに引っ掛かりを与えながら、私たちは消えていく。

あとがきで、柳澤健さんはこう締めている。

「人の世ははかない。はかない世を、人は懸命に生きる」

「パックインミュージック」が終了して40年、林美雄が亡くなって14年。
伝える人がいる。
受け取る私たちがいる。
林美雄の言葉が、深く静かに私たちの心に引っかかる。

「本当にいいものは隠れている。
だから自分で探さないといけない。
自分でいいと思ったものを信じて、それを追いかけるんだ」(林美雄)

1974

June 21, 2016

1999年の松坂大輔

1999年は自分にとって特別な年だ。

1月にジャイアント馬場が亡くなって、2月にフリーター生活に別れを告げ、3月になると改装工事が終わると伊野尾書店の店員としての人生が始まった。
前年の6月から改装工事を行い、予定では4月1日にリニューアルオープンするはずだった伊野尾書店は「荷物入ったんだし開けちゃおう」という社長の気まぐれな一言で3月31日の午後3時過ぎにサラッと再開した。
そこからしばらく忙しくて休憩はおろか昼ごはんも夜ご飯もろくに食べられない怒涛の日々が始まった。

松坂大輔のプロ初登板は私にとってそんな怒涛の日々が少し落ち着いてきた、4月7日金曜日の夜のことだった。
甲子園で数々の伝説を作り上げて鳴り物入りでプロに入った彼の初登板は単なるパ・リーグの一試合をテレビ朝日が緊急生中継をするほどの出来事になった。

その松坂の初登板、今もなお語り草となっている日本ハムの3番・片岡篤志に向けて投げた155キロのストレートを片岡が豪快に空振り三振した場面を、私は休憩室のテレビで夕食を食べながら見ていた。
すげえ…としか思えなかった。
その日は仕事で疲れていたけど、夜遅くまでテレビ各局のプロ野球ニュースをザッピングしながら何度も松坂初登板の映像を繰り返し見ていた。

その時期、松坂は動向すべてがニュースになり、投げる試合は平日であろうとどの球場であろうと超満員となった。
プロ三戦目、松坂はロッテ戦で黒木知宏と投げ合った末に2失点で敗れる。
次週松坂はふたたびロッテ戦で黒木と投げ合い、今度は勝利するとヒーローインタビューで語った「リベンジしました」という言葉が、その年の流行語大賞になった。
「松坂大輔」は社会現象になっていた。

けどその頃の自分はそれどころではなかった。
4月の後半から5月の連休明けくらいまで、おたふくかぜにかかってずっと寝込み、仕事を休んでいた。
家業を継いでスタートしたばかりで仕事に穴をあけることに「何をやってんだろう」と深い罪悪感が残り、時折母親が様子を見に来ることに対して「いい年なのに母親の世話になっている」と負い目を感じていた。

病気が治って店に出ると今度は仕事のやり方で度々父親とぶつかった。
いま思えばこちらはズブの素人同然だし、見当違いなことを言ったりやったりしている部分はあっただろう。
ただ当時は父親のやり方が前時代的なものに思えたり、書店というサービス業のなかでお客さんが喜ぶ方向になっていないと感じることが多かった。
父親も店長の座を息子に譲るとしたものの、譲ってオープンしてみたらいきなり体調崩して休みだしたものだから、結局自分で前のようにまたやる気になってしまっていたのだと思う。
この時期は非常にストレスを抱える毎日だった。

そんなある日、学生時代の友人K君と次の休日に野球を見に行こうという話になった。
行くのは千葉マリンスタジアムだ。
K君とは学生の頃から時折マリンスタジアムのロッテ戦をときどき見に行っていた。
東京からだと海浜幕張はちょっとしたお出かけの距離で、近くに海もあり、球場はすいていて、気持ちよく野球観戦ができる球場だった。

約束の日曜日はロッテ―西武戦だった。
試合はなんでもよかった。
いつものようにのんびり試合直前に球場に入り、ロッテ側の外野席でジュースでも飲みながら適当に応援するつもりだった。

ところが前日夜にテレビのスポーツニュースを見てると「明日のロッテ戦で松坂が先発」とキャスターが紹介している。
うわ…!となった。
「なにもここで投げなくても」という気持ちだったが、松坂本人はローテーションに沿って投げてただけで、それがたまたま自分たちの見に行く日とぶつかっただけだろう。
松坂が投げるんじゃ混むに違いない。
K君とは待ち合わせを早めて試合開始1時間半くらい前に着くように行ったが、それでもマリンスタジアムはギュウギュウの満員だった。
その頃のロッテは不人気チームでいつも球場はガラガラであり、満員のマリンスタジアムを見たのはそれが最初のことだった。

 

外野席から見た松坂大輔は「まるで打てそうにない」というピッチャーだった。
とにかくポンポンストライクが入り、ロッテ打線は三振するかサクサクと凡退する。

一週間前のオリックス戦で、松坂はのちに「平成の名勝負」と呼ばれる、イチローとの初対決に臨み3打席連続三振を奪って完勝していた。
ヒーローインタビューで「プロでやれる自信から確信に変わりました」とまたしても名言を残したところまで含めて、この日の投球はこの年のプロ野球を代表する名場面として人々に記憶された。
その次の登板である。
そうそう打てる空気がなかった。

対するロッテの先発はハートグレイブスという聞いたこともない外国人投手で(その試合以外でとうとう見ることがなかった)、着実に失点を重ね、中継ぎ投手に交代して、試合開始まで「今日はあの松坂を打つぞ!」と前のめりだったロッテ応援団たちが試合が進むにつれ段々と熱量が下がっていき、球場全体としても試合開始直後の濃密な緊張感が徐々に散漫になっていき、そのうち私たちも「ダメだこりゃ」と両手を座席の後ろについて見るようになった。
試合途中、飲み物を買いに売店へ歩いてると5月のマリンスタジアムの浜風が気持ちよく、暑くもなく寒くもない気候で「ずっとこんな休みが続くといいなあ」と思った。

 

松坂は9回まで無失点で、あと3人で完封というところまで来ていた。
「これで終わりかあ」「やっぱすげえんだなあ松坂」という冷めた気持ちのまま義務的に応援をしていると、ロッテの三番・大村巌がライトに打った打球がそのまま伸び、私たちのいたライトスタンドまでやってきた。
松坂からホームランを打てると思ってなかったので、私たちは飛び跳ねるように喜んだ。
いやよかった、今日はこれが見られてよかった、と思ってた矢先に次打者の四番・初芝までレフトにホームランを打った。
スコアでいうとこのホームランを入れても2-4でまだ負けてるのだが、ライトスタンドのロッテファンは蜂の巣をつついたように狂喜乱舞した。
あの松坂から二者連続ホームランである。しかもこのロッテ打線で。

 

わかっている。
野球と人生は関係しない。
好きなチームが勝っても負けても、好きな選手が打っても打たなくても、そんなことは私たちの毎日を何も変えたりしない。

ただ、当時の私たちはほかに知らなかった。

ダメだと思っていたものが手に入った喜びを、悲観してた未来が覆される快感を、小さな願いが達成される幸福感を、私たちは野球からしか得ていなかった。
だからそこに大きな意味を求めてしまう。
過剰な喜びを感じてしまう。

 

大村と初芝の連続ホームランによって一気に沸き上がった我々ロッテファンを鎮火させるように松坂は後続の3人をピシャッと抑えて、そのまま試合は終わった。
だけど、大村に続いて初芝がホームランを打った瞬間の喜びは、18年たった今も思い出すことができる。
あの日感じた「ずっとこんな休みが続くといいなあ」という思いとともに。

 

「読む野球 No.11」(主婦の友社)にはこの頃の松坂大輔をめぐる貴重な証言がいくつも収録されている。

松坂と対戦した打者として初芝清がこう語っている。

「この年、松坂から僕はホームラン3本打っているのですけど、すべて別の球を待っていてスライダーを打ちました」

あの日、マリンスタジアムで見たホームランを思い出す。
初芝は続けてこう語る。

「いまから思えば、球界を代表する投手からホームランを打てたのは僕にとってひとつの財産ですね」

デビュー登板となった日本ハム戦の初回に片岡から三振を奪った155キロのストレートについて、当時ライオンズの監督だった東尾修はこう語る。

「あれは球速がすごいわけじゃない。ボールの質が最高だった。その後も、彼の投球は何度も見たけど、あのボールが彼の野球人生で最高のボールだった。あんなボールは二度と投げられないと思う」

当時、松坂が登板する際にはキャッチャーとしてボールを受けていた中島聡はこう語る。

「歴代いろんな投手の球を受けてきたけれど大輔の場合は入団した時から、18歳だけど18歳のボールではなかったですね。
“最終的にこうなったらいいのに”というボールをいきなり18歳の時に投げてましたから」

 

生涯最高のボールを最初に投げてしまった松坂大輔。
でもそれは「2016年」から見た感想だ。
「1999年」の僕らはそう思わなかった。
松坂大輔はあのボールをこれからずっと投げ続けると思っていた。

でも、投げられるわけはないのだ。
あのボールは18歳の松坂大輔だから投げられたのだ。

2016年の松坂の投げ方はあの1999年の投げ方とかなり変わっている。
体形も身体の使い方も変わり、メジャーリーグの投手っぽい投げ方になっている。

それを指して「昔の投げ方は理想的だった、あの頃のようなフォームを取り戻してほしい」という声がある。
18歳の時にあんなにすばらしいボールを投げてたのだから、その頃に戻れ、という意見だ。

戻れるわけないではないか。
今は2016年なのだ。
自分は41歳になったし、松坂大輔は36歳になったのだ。
今から1999年に戻れ、と言われても誰も戻れない。
であるなら、「36歳になった松坂大輔」の見せられるボールを、私たちに見せてほしい。

ここに出てくる証言者たちは全員ある言葉を共通して言っている。
「松坂はこのまま終わるわけはない」と。

何をもって終わるか終わらないか、誰もわからない。判断もできない。
ただ、前を向いているか。向くのをあきらめるか。
それだけではないか。

松坂大輔はあきらめてはいない。
ただ前を向いている。
もう球場は満員にならないかもしれない。
もう150キロは出ないかもしれない。
それでも、もう一度だけ球場で松坂大輔を見たいと思っている。
遠くから、あなたの投げるところを目に焼き付けたいと思っている。

 

「大輔が投げている姿をセンターの定位置から見るのは本当に楽しかったんです。
(中略)
普通なら、守っている時って『早く抑えてベンチに帰してくれよ』って思うもなんです。
でも大輔のときは違った。
何時間でも守っていられる。守っていたかった。そんな投手は他にいませんでした」
(当時のライオンズのセンター・大友進)


松坂は日本球界復帰以降、1軍での登板機会はない。
今年5月に二軍での広島戦に先発したが、二回途中9失点で降板したことがニュースになった。
その後は調整が続いている。

Photo

June 18, 2016

6月になりました

気が付けば6月も半ばをすぎました。
舛添さんが辞めちゃったりイチローがすごい記録作ったりいろいろとありましたが、一番変わったのは西武新宿線中井駅の変貌ですよね。

地下になっててエスカレーターができててビックリしました。

Photo_7

Photo_8

 

☆5月に開催した三田さんのイベントがまとめられました。

5/14に当店で開催した三田佐代子さんのトークイベントの模様が「キタコレ!」というニュースサイトでリポートされました。

 

プロレス本を出版した三田佐代子さんがトークショーを開催!
http://www.kita-colle.com/content/12727/

写真が多く、当日どんな雰囲気だったのかがよく伝わってます。

三田さんはうちのあとにも紀伊国屋書店新宿本店さんで男色ディーノ選手とのトークイベントをされたりして、中央公論新社のえらい人が「プロレスって(本を出すと)こんなに反響あるんだ!」と驚かれたそうです。
(中央公論新社は学術系の本が多いんですよね)

その反響は多分に三田さんの力によるものだと思うんですが、ともかく「プロレスが熱い」という空気づくりに貢献できたならよかったなと思います。

創業130年の中公がなぜ今、初のプロレス本?http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/book/15/233582/060700020/?n_cid=nbpnbo_twbn&rt=nocnt

老舗・紀伊國屋書店新宿本店がプロレスイベントを仕掛けるワケ
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160606-OYT8T50054.html

 

 

☆懇親のプロレス雑誌『NEW WORLD』

プロレス雑誌を出してる出版社というと「週プロ」を出してるベースボールマガジン社、「ゴング」を出してる徳間書店、「KAMINOGE」を出してる東邦出版、「Gスピリッツ」を出してる辰巳出版あたりが挙がるわけですが、ついにあの文芸出版社がそこに参戦しました。

ということで新潮社が「レェェベルが違うんだよ!」と作った(かどうかはわかりませんが)プロレス雑誌、『NEW WORLD』が出ました。

Newworld
www.shinchosha.co.jp/book/790242/

寄稿してるのは角田光代、西加奈子、三浦しをん、樋口毅宏、雨宮まみ、菊地成孔、千葉雅也というそうそうたる顔ぶれ。
こんなプロレス雑誌は15年ほど前に『現代思想』がプロレス特集を組んだ時以来ではないでしょうか。

しかしこの雑誌で一番核になってるのは棚橋弘至とKUSHIDAというヘビー・ジュニア両方のエースが初めて書いたという小説。
棚橋弘至『全力兄弟』はプロレスラーになった兄とならなかった弟、という二人を描く短編。
私、わりと低く見積もって読みだしたのですがうっかり面白かったです。というか上手い!
重松清の短編ぽい作風です。

KUSHIDA「東京ドーム」はライトSF小説的なストーリー。
KUSHIDA選手のタイムスプリッターズな足跡と、新日本プロレスのトリビアを知ってると余計楽しめる話です。

そして蛇足ですが私、伊野尾も「プ男子の主張」というコーナーで短いエッセイを書かせていただきました。
何の話を書くか考えた末に、キャプテン・ニュージャパン選手のことを書きました。

Photo_6

以前の解説を書かせていただいた村瀬秀信さんの文庫「4522敗の記憶」の時もそうですが、この「自分で書いた本を自分で紹介して自店で売る」という行為にはいささか引っ掛かりを覚えないこともないのですが、珍しい事例として認知していただければ幸いです…。

 

☆映画「FAKE」と「淋しいのはアンタだけじゃない」

森達也監督があの佐村河内守氏を撮ったドキュメンタリー映画「FAKE」を見てきました。

Fake

http://www.fakemovie.jp/

常々「物事は多層的に、多角的に見るべきだ」という話をしている森達也監督らしい、いろんな捉え方ができる映画でした。

とはいえ一番に印象に残るのはマンションの部屋から一歩も外に出ない(出られない)佐村河内さんの姿で。

全編通じて「よう撮ったな」「よう撮らせたな」ということを感じさせます。

作中、佐村河内さんのお父さんに森監督が「少し落ち着きましたか?」と質問すると、

「うーん、まあ落ち着くことはないですよ。
いろんな人がいろんなことを言いました。
そのなかで『この人だけは絶対に最後まで味方だろう』という友人がいたのですが、その人が『でもあの人(=週刊文春で最初に佐村河内スキャンダルを書いたライターの神山氏)は、立派な賞も取ってるっていうしね』と言ったのを聞いて、ああ誰もこちらの話を聞いてくれる人はいないんだ、と思いましたね」

と答えた場面が大変印象に残りました。

 

「FAKE」の公開と時を同じくして、小学館ビッグコミックスから吉本浩二の「淋しいのはアンタだけじゃない」が発売になりました。

Photo_5

www.shogakukan.co.jp/books/09187609

これは吉本浩二氏が聴覚をテーマにしたドキュメンタリーコミックで、「耳が聞こえないというのはどういうこと

なのか」を取材していくのですが、その過程で佐村河内守氏に行き着きます。
そしてこの取材時期が森監督が「FAKE」を撮影しているのと同じ期間なのです。

この二つの作品が佐村河内さんを通じてどうリンクするのか、ぜひ読んでみてお確かめください。

 

☆石橋毅史さんの新刊「まっ直ぐに本を売る」(苦楽堂)

Photo_4

「『本屋』は死なない」「口笛を吹きながら本を売る」などの著書がある石橋毅史さんの新刊「まっ直ぐに本を売る」(苦楽堂)が発売になりました。

今回は「直販」と呼ばれる、出版社と書店が直接取引する流通形態についてのドキュメント…なんですが、なぜ石橋さんがこのテーマで書こうと思ったのか、どういった経緯で直販中心の苦楽堂から出すことになったのか、いわば本筋の周りにある話がとてもいいです。
(この本に至る最初のきっかけとなる、かつてとある出版社の営業マンとして働いていた時のエピソードが特に)

石橋さんは発売中の「スペクテイター36号〈特集:コペ転〉」にも〈マニタ書房〉代表・とみさわ昭仁氏の話を描いてます。
http://www.spectatorweb.com/

 

 

☆『トウガラシの世界史』『チョコレートの世界史』『ピザの歴史』『カレーの歴史』…。
知ってるようで知らない食べ物の歴史、雑学についての本を集めたフェアを始めました。

題して「あなたの知らない食べものの話」

Photo_2

このフェアをやるにあたって「パンケーキの歴史」「ピザの歴史」「カレーの歴史」などを出してる、原書房の『「食」の図書館』シリーズをどこまで入れるか、という小さな悩みがあったんですが結局自分が興味ある食べ物で絞って入れました。

このシリーズはすごいですよ。
たとえば「ピザの歴史」をパラパラと開くと、

  • ピザは1958年にピザハットが、1960年にドミノ・ピザが設立されて「宅配されて食べるもの」になる。ピザハットは世界中に出店していったがうまくいかなったのがイタリアと旧ソ連だった。旧ソ連で宣伝を務めたのはミハイル・ゴルバチョフだった。

  • 宅配ピザが普及すると「他人の名前でピザを注文する」という嫌がらせが生まれた。ロイター通信がドミノ・ピザへの取材をもとに書いた2003年の記事によると、客が自分の本名を明かさずピザを注文するときにもっともよく使う偽名は「パリス・ヒルトン」。

といった酒の席で披露するくらいしか活用の方法がないピザ雑学がたんまり拾えます。

ちなみに『カレーの歴史』にはみちのくプロレスに出ていたカレーマンのことが紹介されており、ちゃんと「必殺技はスパイシードロップ」という記述まであります。
ホントによく調べてあるなあ。
そういえばカレーマンのパートナーに一瞬いたハヤシライスマンってどこ行ったんだろう。

 

Photo_3

 

 

 

☆自店のロングセラーを紹介

・ドラえもん名言集「のび太くん、もう少しだけがんばって」
著/藤子・F・不二雄  編/幅允孝 (小学館)

Photo

田中角栄とか世界でもっとも貧しい大統領とか松岡修造の名言集も売れてるんですが、中井ではドラえもんの名言集も同じくらいずーっと売れ続けています。
名言集って結局「よく知ってる人の言葉」が強いのかな…と思いました。

1

2

(H)

« May 2016 | Main | July 2016 »

My Photo

他のアカウント

ご注文はこちらまで

April 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30