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June 21, 2016

1999年の松坂大輔

1999年は自分にとって特別な年だ。

1月にジャイアント馬場が亡くなって、2月にフリーター生活に別れを告げ、3月になると改装工事が終わると伊野尾書店の店員としての人生が始まった。
前年の6月から改装工事を行い、予定では4月1日にリニューアルオープンするはずだった伊野尾書店は「荷物入ったんだし開けちゃおう」という社長の気まぐれな一言で3月31日の午後3時過ぎにサラッと再開した。
そこからしばらく忙しくて休憩はおろか昼ごはんも夜ご飯もろくに食べられない怒涛の日々が始まった。

松坂大輔のプロ初登板は私にとってそんな怒涛の日々が少し落ち着いてきた、4月7日金曜日の夜のことだった。
甲子園で数々の伝説を作り上げて鳴り物入りでプロに入った彼の初登板は単なるパ・リーグの一試合をテレビ朝日が緊急生中継をするほどの出来事になった。

その松坂の初登板、今もなお語り草となっている日本ハムの3番・片岡篤志に向けて投げた155キロのストレートを片岡が豪快に空振り三振した場面を、私は休憩室のテレビで夕食を食べながら見ていた。
すげえ…としか思えなかった。
その日は仕事で疲れていたけど、夜遅くまでテレビ各局のプロ野球ニュースをザッピングしながら何度も松坂初登板の映像を繰り返し見ていた。

その時期、松坂は動向すべてがニュースになり、投げる試合は平日であろうとどの球場であろうと超満員となった。
プロ三戦目、松坂はロッテ戦で黒木知宏と投げ合った末に2失点で敗れる。
次週松坂はふたたびロッテ戦で黒木と投げ合い、今度は勝利するとヒーローインタビューで語った「リベンジしました」という言葉が、その年の流行語大賞になった。
「松坂大輔」は社会現象になっていた。

けどその頃の自分はそれどころではなかった。
4月の後半から5月の連休明けくらいまで、おたふくかぜにかかってずっと寝込み、仕事を休んでいた。
家業を継いでスタートしたばかりで仕事に穴をあけることに「何をやってんだろう」と深い罪悪感が残り、時折母親が様子を見に来ることに対して「いい年なのに母親の世話になっている」と負い目を感じていた。

病気が治って店に出ると今度は仕事のやり方で度々父親とぶつかった。
いま思えばこちらはズブの素人同然だし、見当違いなことを言ったりやったりしている部分はあっただろう。
ただ当時は父親のやり方が前時代的なものに思えたり、書店というサービス業のなかでお客さんが喜ぶ方向になっていないと感じることが多かった。
父親も店長の座を息子に譲るとしたものの、譲ってオープンしてみたらいきなり体調崩して休みだしたものだから、結局自分で前のようにまたやる気になってしまっていたのだと思う。
この時期は非常にストレスを抱える毎日だった。

そんなある日、学生時代の友人K君と次の休日に野球を見に行こうという話になった。
行くのは千葉マリンスタジアムだ。
K君とは学生の頃から時折マリンスタジアムのロッテ戦をときどき見に行っていた。
東京からだと海浜幕張はちょっとしたお出かけの距離で、近くに海もあり、球場はすいていて、気持ちよく野球観戦ができる球場だった。

約束の日曜日はロッテ―西武戦だった。
試合はなんでもよかった。
いつものようにのんびり試合直前に球場に入り、ロッテ側の外野席でジュースでも飲みながら適当に応援するつもりだった。

ところが前日夜にテレビのスポーツニュースを見てると「明日のロッテ戦で松坂が先発」とキャスターが紹介している。
うわ…!となった。
「なにもここで投げなくても」という気持ちだったが、松坂本人はローテーションに沿って投げてただけで、それがたまたま自分たちの見に行く日とぶつかっただけだろう。
松坂が投げるんじゃ混むに違いない。
K君とは待ち合わせを早めて試合開始1時間半くらい前に着くように行ったが、それでもマリンスタジアムはギュウギュウの満員だった。
その頃のロッテは不人気チームでいつも球場はガラガラであり、満員のマリンスタジアムを見たのはそれが最初のことだった。

 

外野席から見た松坂大輔は「まるで打てそうにない」というピッチャーだった。
とにかくポンポンストライクが入り、ロッテ打線は三振するかサクサクと凡退する。

一週間前のオリックス戦で、松坂はのちに「平成の名勝負」と呼ばれる、イチローとの初対決に臨み3打席連続三振を奪って完勝していた。
ヒーローインタビューで「プロでやれる自信から確信に変わりました」とまたしても名言を残したところまで含めて、この日の投球はこの年のプロ野球を代表する名場面として人々に記憶された。
その次の登板である。
そうそう打てる空気がなかった。

対するロッテの先発はハートグレイブスという聞いたこともない外国人投手で(その試合以外でとうとう見ることがなかった)、着実に失点を重ね、中継ぎ投手に交代して、試合開始まで「今日はあの松坂を打つぞ!」と前のめりだったロッテ応援団たちが試合が進むにつれ段々と熱量が下がっていき、球場全体としても試合開始直後の濃密な緊張感が徐々に散漫になっていき、そのうち私たちも「ダメだこりゃ」と両手を座席の後ろについて見るようになった。
試合途中、飲み物を買いに売店へ歩いてると5月のマリンスタジアムの浜風が気持ちよく、暑くもなく寒くもない気候で「ずっとこんな休みが続くといいなあ」と思った。

 

松坂は9回まで無失点で、あと3人で完封というところまで来ていた。
「これで終わりかあ」「やっぱすげえんだなあ松坂」という冷めた気持ちのまま義務的に応援をしていると、ロッテの三番・大村巌がライトに打った打球がそのまま伸び、私たちのいたライトスタンドまでやってきた。
松坂からホームランを打てると思ってなかったので、私たちは飛び跳ねるように喜んだ。
いやよかった、今日はこれが見られてよかった、と思ってた矢先に次打者の四番・初芝までレフトにホームランを打った。
スコアでいうとこのホームランを入れても2-4でまだ負けてるのだが、ライトスタンドのロッテファンは蜂の巣をつついたように狂喜乱舞した。
あの松坂から二者連続ホームランである。しかもこのロッテ打線で。

 

わかっている。
野球と人生は関係しない。
好きなチームが勝っても負けても、好きな選手が打っても打たなくても、そんなことは私たちの毎日を何も変えたりしない。

ただ、当時の私たちはほかに知らなかった。

ダメだと思っていたものが手に入った喜びを、悲観してた未来が覆される快感を、小さな願いが達成される幸福感を、私たちは野球からしか得ていなかった。
だからそこに大きな意味を求めてしまう。
過剰な喜びを感じてしまう。

 

大村と初芝の連続ホームランによって一気に沸き上がった我々ロッテファンを鎮火させるように松坂は後続の3人をピシャッと抑えて、そのまま試合は終わった。
だけど、大村に続いて初芝がホームランを打った瞬間の喜びは、18年たった今も思い出すことができる。
あの日感じた「ずっとこんな休みが続くといいなあ」という思いとともに。

 

「読む野球 No.11」(主婦の友社)にはこの頃の松坂大輔をめぐる貴重な証言がいくつも収録されている。

松坂と対戦した打者として初芝清がこう語っている。

「この年、松坂から僕はホームラン3本打っているのですけど、すべて別の球を待っていてスライダーを打ちました」

あの日、マリンスタジアムで見たホームランを思い出す。
初芝は続けてこう語る。

「いまから思えば、球界を代表する投手からホームランを打てたのは僕にとってひとつの財産ですね」

デビュー登板となった日本ハム戦の初回に片岡から三振を奪った155キロのストレートについて、当時ライオンズの監督だった東尾修はこう語る。

「あれは球速がすごいわけじゃない。ボールの質が最高だった。その後も、彼の投球は何度も見たけど、あのボールが彼の野球人生で最高のボールだった。あんなボールは二度と投げられないと思う」

当時、松坂が登板する際にはキャッチャーとしてボールを受けていた中島聡はこう語る。

「歴代いろんな投手の球を受けてきたけれど大輔の場合は入団した時から、18歳だけど18歳のボールではなかったですね。
“最終的にこうなったらいいのに”というボールをいきなり18歳の時に投げてましたから」

 

生涯最高のボールを最初に投げてしまった松坂大輔。
でもそれは「2016年」から見た感想だ。
「1999年」の僕らはそう思わなかった。
松坂大輔はあのボールをこれからずっと投げ続けると思っていた。

でも、投げられるわけはないのだ。
あのボールは18歳の松坂大輔だから投げられたのだ。

2016年の松坂の投げ方はあの1999年の投げ方とかなり変わっている。
体形も身体の使い方も変わり、メジャーリーグの投手っぽい投げ方になっている。

それを指して「昔の投げ方は理想的だった、あの頃のようなフォームを取り戻してほしい」という声がある。
18歳の時にあんなにすばらしいボールを投げてたのだから、その頃に戻れ、という意見だ。

戻れるわけないではないか。
今は2016年なのだ。
自分は41歳になったし、松坂大輔は36歳になったのだ。
今から1999年に戻れ、と言われても誰も戻れない。
であるなら、「36歳になった松坂大輔」の見せられるボールを、私たちに見せてほしい。

ここに出てくる証言者たちは全員ある言葉を共通して言っている。
「松坂はこのまま終わるわけはない」と。

何をもって終わるか終わらないか、誰もわからない。判断もできない。
ただ、前を向いているか。向くのをあきらめるか。
それだけではないか。

松坂大輔はあきらめてはいない。
ただ前を向いている。
もう球場は満員にならないかもしれない。
もう150キロは出ないかもしれない。
それでも、もう一度だけ球場で松坂大輔を見たいと思っている。
遠くから、あなたの投げるところを目に焼き付けたいと思っている。

 

「大輔が投げている姿をセンターの定位置から見るのは本当に楽しかったんです。
(中略)
普通なら、守っている時って『早く抑えてベンチに帰してくれよ』って思うもなんです。
でも大輔のときは違った。
何時間でも守っていられる。守っていたかった。そんな投手は他にいませんでした」
(当時のライオンズのセンター・大友進)


松坂は日本球界復帰以降、1軍での登板機会はない。
今年5月に二軍での広島戦に先発したが、二回途中9失点で降板したことがニュースになった。
その後は調整が続いている。

Photo

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