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March 2012

March 20, 2012

無理解の理解


2児放置死 母に懲役30年 育児放棄で殺意認定

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120317-OYO1T00171.htm?from=top

大阪市・2幼児放置死事件

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc%2Flocal%2Fosaka_2_children_abandoning%2F#backToPagetop

下村早苗被告の生い立ち【餓死した子供への思い】

http://matome.naver.jp/odai/2133153454036208601

姉弟が置かれた環境を「食べ物も飲み物も手に入れることができず、糞尿にまみれ不衛生極まりない」としたうえで、そこで徐々に衰弱死させたことを、「むごいの一語に尽きる」と断罪した。
(産経新聞 3月17日(土)7時55分配信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120317-00000107-san-soci


何日も食べるものも与えられず、絶食に泣き、衣服を取りかえられることもなく、糞尿まみれで死んでいった幼い子どもを思う時、私たちは誰でもそれを気の毒に思う。
気の毒な気持ちは「どうすることもできなかったのか」という怒りに変換され、誰かに向けられる。
まずこの母親に、次に何度も通報を受けながら結果的に見過ごした形になった警察と児童相談所に、「なんでそのままにしたのか」と怒りの炎をぶつける。

けど思う。
じゃあ、あなたは代わりに子どもの世話ができたのか。
仮に自分が、育児放棄の疑いがある家庭に強制的に乗り込んでいける法律もなければ発見したところで特に給与が増えるわけでもない、むしろただ自分の仕事が増えていくだけの相談所職員だったとして、同じことを自分に言えるだろうか。

もともと、哺乳類は群れで子どもを育ててきた。
ヒトは共同体で育ててきた。
その共同体が消えた時、密室育児は始まった。
育児にかかるものすごい手間、責任、すべての負担を母親に押し付けた。
押し付けられた母親が少しの間だけでも抜け出すには替わりに見てくれる実の両親か、ベビーシッターか、保育施設かが必要だ。
そのどれも持たない、お金も人も持たない母親は、その負担に加え孤独感とも闘う。無理解とも闘う。

年末に、私は金原ひとみの「マザーズ」という本を『今年一番影響を与えられた本』として並べた。
手に取る人は多かった。
パラパラ見ている人も少なからずいた。
が、買われた冊数はいくらもなかった。

薦められて「マザーズ」を手にしたものの結局買わずに戻したある知人女性は「ちょっと重すぎる感じがして…」と言葉を濁した。
営業で店を訪れたある出版社の男性は「うーん…」とうなって元の位置に戻した。

「マザーズ」を勝手に薦める自由があるのと同時に、読まない自由もある。
そこは別にかまわない。
ただ、こういうテーマっていうのは決して受け入れられやすいものではないな、という実感は残った。

その後、「マザーズ」に関連して「母という孤独な職業」というテーマで新書のミニフェアをやった。
その中には「ルポ児童虐待」(朝日新聞新書)という本もあった。
が、これも食い付きが悪かった。
展開場所が悪かったのかもしれない。
アピールが弱かったのかもしれない。
ただ、先に述べた「実感」はより強化された。

子どもは誰が育てるものなのか。
子どもを育てられない親はどうすればいいのか。
頭がいい人だけがわかっても意味がない。
虐待の向こうには無関心な私たちがある。
「今後考えなければならない」とか「このような事件が今後あってはならない」などといった評論家口調で語尾をまとめて、その実何もしない私たちがこの世界を作っている。
それを私は変えようと思わない。
なぜなら私は私のことで手いっぱいだからだ。
申し訳ない、と思いながら被告を罵倒するネットのページを閉じる。
ダンナが「どうしても抜けられない仕事が」といって取引先と酒を飲むことと、育児に疲れた女性が「息抜きに友達と食事してきたいから育児よろしく」といって出かけることがイコールでつながらないこの国で、30年の収監のあとにたった一瞬でも彼女が救われる瞬間が訪れることを、何もせずに願っている。ただ、願っている。



「ふっとこめかみのあたりから、ねっとりとした汗の匂いが漂った。
一刻も早く一弥を寝かしつけ、シャワーを浴びたかった。
今日、浩太は接待で遅くなる。
私が一弥を寝かしつけない限り、私はシャワーを浴びることができない。
寝かしつけてシャワーを浴びに行ったとしても、鳴き声が聞こえたらその瞬間私のシャワーは終わりだ。
しかし一緒に眠ってしまえば、シャワーは確実に明日の夜まで持ち越される。
何故、私の生活が、私の人生が、私の思い通りにならないのだろう。
そもそも、私は子どもを持つことを望んでいたのだろうか。」(「マザーズ」金原ひとみ)

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(H)

March 14, 2012

「SIGHT」総力特集 :この国ではなぜ誰も罰せられないのか

「SIGHT」
●総力特集 3・11から1年。この国ではなぜ誰も罰せられないのか

Sight51

先週末は新聞、テレビで数多く「3.11 あれから一年」という特集が数多く組まれていました。
本もたくさん出ています。
そんなたくさん出ている本の中で、ひときわ目を引いたのがこの「SIGHT」でした。

ずっと不思議に思っていました。
なぜ東京電力は罰せられないのか。
原発事故で余儀なく移住(もう「避難」という言葉は間違ってると思います)させられた人数は約22万人といわれています。
http://standardization.at.webry.info/201103/article_22.html
それだけ多くの人が住む家を、住む街を、仕事を失ってしまったというのに、それに対して国家から刑事罰が一向にくだる様子がないのはなぜなのか。
このことはずっと疑問に思っていました。

同志社大学法学部の川崎友巳教授は、日本には「企業を刑事裁判にかける法律がない」といいます。
刑事裁判の被告は必ず人間であり、法人がその対象になるという考えがない。
ゆえにかつての公害裁判でも企業を相手取るのは民事に限られ、お金のやりとりだけで解決されることになる。

少し前に多数の死者を出したJR福知山線脱線事故の裁判で、当時のJR西日本の社長が刑事告訴されましたが、無罪判決になりました。
これは裁判所が「その社長一人がどうこうして事故になったとは考えずらい」と判断した、ということです。
「事故が起こったときたまたまその人が社長だったからといって、事故の全責任がその人に帰結するとは思わない」ということでしょう。
中国やアメリカではそういう動きもあるようですが、単なる個人のバッシングとなって全体の問題解決にはならないといいます。
東京電力を損害賠償という民事で訴えることはできても、国家に株式会社東京電力の企業としての活動を停めてもらうシステムがこの国にはない。
(仮にあったとしても現実問題すぐに停めるのは難しい)

福島県二本松市のゴルフ場が除染と損害賠償を東京電力に求めた裁判で、東京電力側の弁護団が「放射能は誰の物でもない”無主物”なので東電に除染する責任はない」と主張し、唖然とさせられることがありました。

http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1932.html

この裁判は東電側のその主張を聞き入れなかったものの、判決は「規定の数値以下なので支払う必要はない、除染は国・自治体が行う作業」として実質却下しました。
このような判決の裏には「東電の賠償金は今後実質国が負担することになるので、“なるべく増やすな”という圧力が働いている」という話が出てきます。
なんじゃそりゃ、という話です。
けど「なんじゃそりゃ」に至る過程は理解できます。
そういう話がワラワラ出てきます。

今回の問題を、
・事故前の予防不全(事故の予防策の不備)
・事故後の対応不全(現場のオペレーション失敗)
・原子力行政の責任をどう考えるか(そもそも原発自体に問題があったのか、福島第一原発だけが問題だったのか)

の3つにわけて考える必要がある、と説く藤原帰一氏。
「なぜ国民の大多数が原発反対を訴えているのにそれを政策にする党がないのか」という疑問にも答えています。

原発事故後、「ただちに被害はない」と言い続ける政府の発表報道に終始し、結果的に被害を拡大させた一端でもあるメディアの責任については『官報複合体』を上梓した、元日経新聞記者でジャーナリストの牧野洋氏が答えています。

「日本のメディアは被害者と加害者以外、報道する記者も、罪を追求する検察も、裁く裁判官もみな匿名。自分の名前を出さないから、間違ったことを言おうが名誉を傷つけることを言おうが全然責任を問われない。これでは2ちゃんねると変わらない」という話が印象的でした。

すべてに明確な理由があって現在に至っている。
これだけ大きな、国の歴史にずっと残るような惨事が起きて、とてつもない数の人々が被害にあっているのに、なぜ誰も裁かれないのだろう、という疑問はこの本の中で繰り広げられる各方面の関係者の話を読んでるうちになんとなく氷解していきます。
氷解していくけど、代わりに別のなんともいえない無力感が残ります。
その無力感の正体は「けどそんな国を作ったのは我々であり、我々の両親なのだ」という、あまり直視したくない結論がぼんやり見えているからなんだと思います。

(H)

March 08, 2012

今年に入って一番心を貫かれた本

○『萩尾望都作品集 なのはな』(小学館)

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原発事故後の福島に生きる少女を主人公にした冒頭の短編「なのはな」を読んで私は泣きました。
泣きながらいったいこの涙は何の感情から引き起こされる涙なんだろうかとわからなくなりました。
「萩尾望都は福島をダシに使って何か描いてるんじゃねえよ」という怒りの感情が出てきました。
その直後に「でもここで萩尾望都が描いてくれたおかげでたくさんの人が再び福島に思いを寄せる」ことにも思い至りました。
明るい希望を残す結末に深い余韻を覚えつつ、これを読む私たちは「あー泣いた。さあ次」となってしまっていいものだろうか、とも考えました。

私の知る限り、いま福島にいる人たちは他県の人間からことさら「大丈夫?」みたいに言われることをイヤがっているように思います。
同時に、「他人事だと思って」という感情を他県の人間に対して多かれ少なかれ必ず持っている。
色眼鏡で見ないでほしいと考えつつ、同じ立場でいられるかといえば絶対そうはなれない。
今回の原発事故で一番悲しいのは、こういった断絶が生まれてしまったことで。

すごくいろんなことを思います。
いろんなことを問いかけてくる物語です。
福島弁に触れたことがなければ、何も思わないかもしれません。
それでも、一度は読んでみてほしいです。
沸き上がるのがどういう感情であれ、何も出てくるものがなければそれはそれで、自分があれから一年たった今、何を思っているのかを自分で確認できます。
これはそういう物語です。


3.11の大震災と、それに続く原発事故。
かつてない事態に直面した作者は、ザワザワとした気持ちを抱えながら、フクシマの少女を主人公にした話題作「なのはな」と、放射性物質と人間との関係をシニカルに描いた3部作「プルート夫人」「雨の夜―ウラノス伯爵-」「サロメ20XX」を立て続けに発表しました。
今回はそれらに加え、特別描き下ろし「なのはな-幻想『銀河鉄道の夜』」を収録しました。今を生きる全ての人たちに読んでほしい作品集。


http://www.hagiomoto.net/books/comics/rapeflowers.html

震災後の福島県を舞台にした萩尾望都「なのはな」に対する反応 まとめ
http://togetter.com/li/155538

(H)

March 05, 2012

テスト:ポスター風

19722月、真冬のあさま山荘に立てこもった男たちと、彼らを取り囲んだ機動隊員は同じ日清カップヌードルを食べていた。

「渡る世間は鬼ばかり」で泉ピン子が嫁いだのはなぜラーメン屋でなければならなかったのか。

なぜ日韓ワールドカップの頃から従業員が作務衣を着て「麺屋」と名乗るラーメン屋が増えたのか。

 

戦後65年、この国の食卓にはいつもラーメンがあった。

ただ、ラーメンが貧乏学生の夜食から並んで食べるものに変わったように、日本の姿も、日本人の心もこの65年で大きく変わっていった。

いつから私たちはそのことを不自然に思わなくなってしまったのだろうか。

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『ラーメンと愛国』

著者:
 速水健朗

講談社現代新書


798
円(税込)

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