「『プロレススーパースター列伝』秘録」原田久仁信
「『プロレススーパースター列伝』秘録」原田久仁信(文藝春秋)
1980年代から90年代にかけて全国3000万人(by古舘伊知郎)のプロレスファンを魅了した漫画『プロレススーパースター列伝』(以下『列伝』)。
アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラス、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、タイガーマスク、ジャイアント馬場&アントニオ猪木など、当時の人気プロレスラーの来歴、秘話がドキュメンタリータッチで描かれるこの作品に、情報が乏しかった昭和時代のプロレス少年たちはみんな魅了されました。
後年、この『列伝』を読んでいたという人と出会うと
「あれな、日本で試合終わったブッチャーが奥さんへのお土産に博多人形買ってアメリカの自宅に帰ると奥さんいなくなってたやつな!」
とか、
「若かりしジャンボ鶴田とスタン・ハンセンがスパゲッティとコーラで食事している一方で、成功したザ・ファンクスはワインとステーキ食べてるやつな!」
とか局所なエピソードトークで必ず盛り上がり、一気に距離が縮んだものです。
私はこの『列伝』とビッグ錠の『スーパーくいしん坊』で”血の滴るようなステーキ"という表現を覚えました。
あまり人生で使う機会のない言葉です。
今作ではそんな『列伝』がどうやって書かれていたか、梶原一騎原作の物語を作画していた原田久仁信によって語られます。
『列伝』は1981年から1983年にかけて『少年サンデー』で連載されていました。
当時の『少年サンデー』の看板作品は『うる星やつら』『タッチ』『サイボーグ009』などラブコメ作品が強く、その中で『列伝』ほぼ女性が登場しない漫画だったにもかかわらず読者人気3位とかになってたそうですが、当時原田氏にはそういった読者の反響が伝えられることもなく、ひたすら梶原一騎から毎週送られてくる原稿を時間のない中で漫画にしていく毎日を送っていたそうです。
原田氏は連載終了後に大量の読者ハガキをドサッと渡されて初めて読者からの熱い支持があったことを知ったそうで、当時は「連載中の漫画家に人気を伝えると天狗になる」みたいな考えが編集部にあったのかもしれません。
『キン肉マン』のゆでたまごさんも同じように編集部からほめられなかった、と聞きます。
今作は連載舞台裏の証言がいろいろ出てくるわけですが、その中で一番衝撃なのは
「作中で(アントニオ猪木・談)として出てくる、ストーリーテラー役の猪木コメントはすべて梶原一騎の創作だった」
という部分で。
思わず「ええー!」となりました。
まあ、今思えば若干おかしいんですよね。
新日本プロレスはまだしも、全日本プロレスに出ている選手のことをライバル団体の猪木がああだこうだコメントするのは。
当時はなんとなく「猪木は業界の語り部なんだろう」くらいに思い込んでいました。
原田氏は毎週、梶原一騎から送られてくる文章を読んで、その上でストーリーを作画していた。
それは「真実」として描く必要がある。
そうすると、中には「これ本当に…?」というようなエピソードがあってもそれが本当のことなのかどうか、裏を取ることができない。
なので「本当のこと」と信用して描かざるを得ない。
かつて『週刊ファイト』の井上善啓編集長はプロレスのことを「底が丸見えの底なし沼」と評したことがありましたが、梶原一騎の書く「物語」もまさにそんな感じだった。
たとえばアブドーラ・ザ・ブッチャー編ではそれまで「スーダン出身」とされていたブッチャーが、劇中内に登場するインタビューで(聞き役は当の梶原一騎)「ユーは本当にスーダン出身なの?」と聞かれて「違う、それはマガジン(雑誌)が作った嘘」と答えてたりする。
プロレスを見ていて、「これって本当なの?」とファンが薄々考えていることを「いや、それは設定」とレスラーが作中で答えてたりするのだけど、その会話自体もまた梶原一騎が独断で書いている「設定」だったりする。
もはや「クレタ人の嘘」みたいな、「嘘」と「真実」が入り混じっていてどこまでが本当なのかわからない。
まさにプロレスそのもの、といった漫画でした。
もう一つ今作から伝わるのは、「1980年代当時、梶原一騎がいかに出版界・格闘技界で大きな影響を持っていたか」で。
梶原一騎は『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』など数々の大ヒット漫画・アニメの原作者でありました。
実際、どの作品も今読んでも面白いので(ずいぶん時代背景が変わりましたが)、ベストセラー作家であったことは間違いない。
そうすると出版社も、アニメを作るテレビ局の側も、「先生、先生」になりますよね。
そういった中で「『タイガーマスク』を実際にプロレスラーに演じてもらってリングで闘ってもらおう」というプロジェクトが始まる。
マスクをかぶったのが佐山聡という稀代のプロレスラーだったこともあって、タイガーマスクと新日本プロレスは爆発的な人気を得る。
すると新日本プロレスは原作者である梶原一騎を怒らせて「もうタイガーマスクは引き上げる」ってなったら一大事になるので、梶原一騎に何も言えなくなる。
そんな関係が「創作」に鷹揚だった背景として横たわっていたことがうかがえます。
思うに、70年代から80年代の漫画というのは今となっては考えられないぐらい、人々の乾いた心に沁みた娯楽だったんじゃないかな、と思います。
だって『あしたのジョー』で力石徹がジョーとの試合で負けた後に亡くなると、寺山修司が「力石の葬儀をやらないと」と言って、それで講談社で本当に力石の葬式やったんですよ?
https://gendai.media/articles/-/104629?page=3
それって人々が『あしたのジョー』を「娯楽」とか「エンタメ」とか、果ては「コンテンツ」とか言って距離をとって軽く扱うのではなく、おおげさに言えば「自分の人生そのもの」くらいの近さで内面に取り入れてたんじゃないか、と思うのです。
なんで、そうやって漫画で「人生」を作ってた人たちは、それはそれはやりがいがありつつ、同時に重い使命感をもって書いてたんじゃないかな…とこの本を読んで思いました。
先に挙げたように梶原一騎は『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』といったヒット作の原作者でありますが、これらの作品は全部作画は別々の漫画家なんです。
つまり、だいたい揉めて仲たがいするか、梶原氏が不満をもって別の人に代えさせた。
今作で、『あしたのジョー』のラストをめぐって梶原一騎とちばてつやが揉めた話が出てきます。
梶原の原作では、ジョーは真っ白な灰にならなかった。
「試合が終わった後日、ジョーがどこかのベランダからぼんやり外を眺めて、それを遠くから白木葉子が眺めている」という場面が梶原原作のラストシーンだったそうですが、ちばてつやは「それはありえない」として「真っ白な灰になる」ラストにこだわった。
結果、揉めた末に最後は梶原が「勝手にせえ!」となり、あのラストになったからこそ、『あしたのジョー』は伝説になった。
後年、梶原は「(『ジョー』のラストは)あれでよかったんですよ」と言っていたそうです。
ただ梶原とちばてつやとは結果的に断絶した。
梶原には作画担当の漫画家とはそういった衝突が絶えずあった。
1980年、「プロレス漫画を描かないか」と編集部に言われて原田氏が初めて会った梶原一騎はそんな頃です。
自分よりはるかに年若い原田氏は、梶原一騎からすると今までタッグを組んできた作画担当漫画家とはちょっと関係が違ったのかもしれない。
人は、どこで、どのタイミングで、誰と出会うかで人生が決まる。
あらためてそんなことを感じさせる回顧録です。
「連載が始まってだいぶたってから、練馬高野台の自宅で梶原先生に質問した。
『あの猪木(談)というのは大変ですよね。毎週、忙しい猪木さんに話を聞かなくてはいけないわけですから』
すると梶原先生はあまりにもあっさりこう言うのだ。
『お前、何を言ってんだ。聞くわけないだろう』」
(「『プロレススーパースター列伝』秘録」 P.67)